ネコぶんこ


2011年12月20日 それによると、彼らは「アバタール(Avater)」というゲームに取りつかれてしまい、自分たちのキャラクターをもっと強くしようと、PLATOの本拠地であるイリノイ大学のキャンパスに車で乗りつけ、何とか中央オペレーション室に忍び込んだのだという(「アバタール」は一九七〇年代に「ダンジョンズ&ドラゴンズ」を素材として製作された中で最も先進的だったゲームタイトルの一つ)。 [長年日記]

§ [DnD][4e][LnL] 『承認されたリアリズム(Nod To Realism)』

伝説と伝承

モンテ・クック

多くの人たちはダンジョンズ&ドラゴンズをシミュレーションとしてとらえる。確かに、このゲームの起源はシミュレーションにあった。たとえば、このゲームでは剣と槍が発生させるダメージを区別する。ウォーホースとライディング・ホースの移動速度や、がれきだらけの10×10の部屋を掃除するのにどれくらいかかるか、知性を持つ敵が残った体力と相手の頭を殴ることをどれくらい計算してするかなど、さまざまな局面で具体的に区別しようとしてきた。しかし人々がD&Dで“リアリズム”について語るとき、とどのつまり、D&Dはとてもリアルだとはいえないため、私は常にその言葉の周りに引用符を置いてきた。その代わり、できる限り人々がやりたいことを気持ちよく、ゲームを遅くしたりものごとが厄介すぎないよう、リアルであるかのようにシミュレーションしてきた(それはしばしば失敗したが、それよりははるかに多く成功してきた)。

そこここにあるこれらのものを“承認されたリアリズム”と呼ぶことにする。私はそれについて考えたが、その言葉は本当にほぼすべてのゲームを総括できる。ゲームを強く助ける幻想は承認されたリアリズムがもたらすものだ。重量級の歴史ものウォーゲームから始まり、ゲームはたくさんの魔法、モンスター、そしてその他の幻想的要素を積もらせてきた。しかしそれでも、それは多くの歴史的“リアリズム”を保ってきた。OD&Dからの変化で、承認されたリアリズムは強化された。私たちは長柄武器、病気、そしてダンジョン・マスターが彼らのキャンペーン世界を設定するための政治体制さえ詳細なリストで手に入れた。武器のスピードファクターや“武器対鎧”表も無視できない。そうした点により、ゲームの発達につれシミュレーションの度合いは上下したが、承認されたリアリズムはかなりのプレイヤーたちにとって長年にわたって重要なものだったことは明らかで、否定できない。だが、どれくらいのリアリズムがふさわしいだろうか? ちょうどいいリアリズムとは?

この質問は次のようなものより少し複雑かもしれない。たとえば、ヒット・ポイントはどうだろう。ヒット・ポイントの概念はゲームの歴史を通じてほとんど同じままだった。それは鍵となる要素――常に存在してD&Dというゲームを構成する何か――だ。1レベルのファイターはできないが、10レベルのファイターが50フィートの岩棚から飛び降りることができる理由の説明など、さまざまな時にゲームはキャラクターが経験を得ることで増えるヒット・ポイントによって表現しようとしてきた。長年にわたり、プレイヤーはゲームに対する彼ら自身の視座に合った合理化と、幻想がリアリティに立ち入ってもよい範囲、あるいはその逆をつちかってきた(そしてそういう作業が好きではないプレイヤーは、おおむねそれを無視した)。

プレイヤーそれぞれが持つ彼ら自身の合理化――彼ら自身に承認されたリアリズム――は、おそらく非常に堅牢なものだろう。君と私は違う姿でヒット・ポイントを見ているかもしれないし(実際、君は私にとってはまったく重要でないものについて、非常に多くの説明をつけているかもしれない)、それでいい。なぜならゲームのシステムは人々に骨折からのペナルティや小さなあざの記録を強いるようなシミュレーションの領域に深く踏み込んだものではなく、君のヒット・ポイントに対する認識と私のそれがかみ合っていなくても十分に使えるものだからだ。

これらすべてがD&Dのデザインでは、シミュレーションがゲームのプレイを損ねる領域を慎重に見定めねばならないことを意味している。ゲームが承認されたリアリティを提供し、それらはプレイヤーの部屋で彼らだけの承認を行なわせる。

現在の顧客は(1974年の顧客、あるいは2000年の顧客とは違い)どんな基準でリアリティを承認しているのか知るのは、私にとって本当に重要なことだ。君にはぜひ今週の投票に参加して、私に意見を伝えてほしい。