ネコぶんこ


2011年11月01日 何かルールや当座の目的があるにしても、それが何なのか、はっきりしないのだ。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e][LnL] 『ルールを使い倒す(Getting the Most Out of the Rules)』

伝説と伝承

モンテ・クック

先週、私はルールがゲームに行なう提案の効果、具体的には純粋にルールの量と関係する事を話した。今週、私はその話題を続けて話すとともに、それと関係するD&Dゲームで使われる言葉について話そうと思う。

1974年に生まれたダンジョンズ&ドラゴンズが今日に至るまで進化させてきたルールを書くための言葉と記法を見ていくのは魅力的だ。全体を見ると、一般的な流れとして、くだけた調子からより正確であらたまった文体になってきている。正確であることはよいことで、使いやすい。くだけた文体はより読みやすく、より面白い。

ここに問題がある。

いくらかの人たちは楽しむために説明書を読む。それらはだいたい退屈に退屈を重ねている。しかし説明書はそう書かれる理由がある。それらは読者が求めた通りのわかりやすく正確な情報が得られなければならない。ひとつの言葉を変えたり、あるいは語順を変化させると、指示がわかりづらくなることすらある。爆弾解体法の解説を読む時なら、私はそれをできるだけ正確にしてほしい。退屈に退屈を重ねたものがちょうどいい。

しかし、D&Dの本は爆弾の信管を外す解説書ではない。それらはドラゴン、冒険、そして英雄譚を語るゲームの本だ。人々がD&Dのルールブックを読んだ時、それは本当に技術書なみに退屈に退屈を重ねたものでなければならないだろうか? それは正確な専門用語、キーワード、そして定型通りの文章で満たされてないといけないだろうか? あるいはDMとプレイヤーたちに新しい冒険とキャラクターのひらめきを与えるような物語を含んでなければいけないだろうか?

君はゲームのルールと物語が同じ本の中にあり、ルールは厳格でなければいけないと主張するかもしれないが、では、君はそれらを正しく使いこなすことができるだろうか? 私たちはゲームが表現するいくつかの複雑なものを慎重に言葉を選んだ説明ではなく、くだけた調子と雰囲気を伝える文で、ゲーマがそれらを使いこなせると思っているのだろうか?

私はよいゲーム・ライターならどちらもできると思っている。ゲームのルールブックやシナリオはそれらの方法で必要な情報を伝達し、なおかつ刺激的で面白い読み物であることができると私は思う。だが、私はまたこのバランスがD&Dというゲームの歴史があってこそある程度の成功を見せているだけで、普通ならどちらかへ極端に傾いてしまうといいたい。

私がゲームを始めたのは1978年ごろで、Original D&Dのセットだった。それらの本を持っていたのは友人だったが。私が最初に自分のものにした本はすべて第1版のものだった。私は出るはしから買い(当時はシナリオがほとんどだった)、とても楽しく読んだ。同じように私はたくさんゲームをプレイしたが、私のD&Dという趣味の経験には製品を読んで想像力を羽ばたかせていた部分も確かにある。シナリオを読んだとき、私はそうなるかもしれない壮大な物語を考えたり、私自身の物語を創造しようとしたことがある。あるいは、私は自分のキャンペーンにどのシナリオを使おうかと考えをめぐらせた。プレイヤーはどういう顔をするだろう? 私がプレイヤーならどう動くだろう? 私はどうやって面白そうだが複雑な連続した遭遇を動かすだろう? 私はこうしていたのが私ひとりでないことを確信している。

私は想像力を刺激するルールと助けになるいろいろな物はあらゆるD&D体験に不可欠だと、その読む楽しみを根拠に信じている。私はまたルールがとても慎重に意味が明瞭なものとして記述、開発、編集される必要があると信じている。小説ではない、それはゲームなのだ。デザイナがわかりやすく彼のルールを伝えていないなら、彼は自分の仕事をまっとうしていないのである。

両方を持つために、ゲーム・デザイナは生贄を捧げなければならない。たとえば、専門用語はルールを明確にすることを助けるが、語りの調子を非常に堅苦しくする。想像力に富んだ雰囲気を伝える文は特に何度も何度も探されそうなルールの場合、読みやすさを損なうことになる。

“読む楽しみ”と“正確さ”の選択は時と場合による。あるルールは単純で直接的に、他の人物、場所、あるいは事件の紹介ではよりくだけたり想像力を刺激するようにできる。

D&Dゲームに使う本は他のいかなる形の文書にも似ていない。プレイヤーズ・ハンドブックの場合、教本、索引、そして芸術でなければならない。誰かはプレイの方法を学ぶために座ってそれを読む。彼らは明瞭で時に慎重な説明を求めている。プレイしている間、そういう人たちは何度も繰り返しその本を参照する。また彼らはゲームを動かし続けるため、すべてにおいて直接的で完結なことを求める。彼らはまたその本をファンタジーのキャラクターと冒険を作る刺激を受けるためにも求める。その場合、彼らは索引、そして彼らをファンタジーの世界へ飛び立たせる想像力のとっかかりを必要としている。それら3つの面は通常まったく違う本として現われる。本がいちどに3つすべての役割を果たすよう求められる、実に困難なことだ。

さいわい、ゲーム・デザイナは困難を好む。


2011年11月02日 ここでは皆が同じ言葉でしゃべっていた。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e] Rob HeinsooThe Plane Above

D&Dの多元宇宙でも、無限に広がる銀色のアストラル海を扱ったサプリメントが、このThe Plane Aboveですぅ。

まさに“敵地”である元素の渾沌を扱ったThe Plane Belowとは違い、無属性や善の神格の領界も点在するアストラル海を扱うThe Plane Aboveでは、領界ごとの特色や勢力の思惑を紹介し、それをどうシナリオに取り入れるかをより詳しく解説しているですぅ。

データ量はThe Plane Belowと比べても少ない部類だけど、シナリオを自作するDMにとっては、遭遇の例やアイデアが随所にちりばめられたあると便利なサプリメントになっていると思うですぅ。

Chapter 1: Astral Adventuring

「Chapter 1: Astral Adventuring」ではアストラル海とは何か、宇宙の中ではどんな位置づけでどんな場所があり、どういうテーマがふさわしいか、そしてそこをどう旅するかという、おおまかな説明がされていますぅ。

ここの説明をざっと読めば、アストラル海は神々の住まう場所で、魂となった定命の者が行きつく場所であるとともに、そこに原住する定命の者もいて、それぞれの領界ごとにまったく異なる様相を呈する、多島海のような次元界であることがわかってくるですぅ。

キャンペーンのテーマについては、無限に広がる海を舞台に冒険や海賊との戦い、神々の戦いなどの神話的なものが並んでいるけど、アストラル海に浮かぶ島をダンジョンにしてそれを探検することも立派なアストラル海での冒険だと書かれているですぅ。

アストラル海の主な移動手段は海だけにやはり船で、データの紹介や海戦に使えそうな技能の例にはかなりのページ数が費やされているですぅ。特に技能の例は、その技能をどうやって航海や海戦に活かすかがシチュエーションごとに書かれていて、これを組み合わせれば技能チャレンジを楽に作れるようになってますぅ。

また、アルヴァンドールやセレスティア、グルームシュに九層地獄など大きな勢力が擁する軍戦、Dominion Shipについても説明されていて、特別な利益や命名法則が紹介されているですぅ。

Dominion Shipの命名法則は九層地獄だと動力になっている拷問の名前を取った“目玉えぐり”や“串刺し四人組”、ティアマトの配下は彼女の愛人の名前(ただし船は難破することもあるのでティアマトの名前はつけない)と、どれも個性的で面白いですぅ。

Chapter 2: Divine Dominions

「Chapter 2: Divine Dominions」では、神格やエグザルフ、エンジェル、Exalted、Outsider、領界とBorder Islandsという基礎用語の説明をして、アルヴァンドール、セレスティア、チェルノガーリ、ヘスタヴァール、九層地獄、タイテリオンという6つの領界が紹介されていますぅ。

ここではバハムートとティアマトのような不倶戴天の仇敵同士でも、プライモーディアルや“彼方の領域”のように宇宙そのものを乱す敵には共闘するという、神格とプライモーディアルの決定的な違いが解説されているですぅ。つまり、悪の神格でも目指すところは自分がすべてを支配することなので、宇宙の破壊は望まないということですぅ。ただし、タリズダンとロルスは混沌の神格なので次の戦が起こった場合はプライモーディアル側になるかもしれないことが紹介されているですぅ。また、グルームシュも混沌だけど、彼は対混沌になる確率が高いらしいですぅ。

領界の紹介では、それぞれ数ページをかけて住人や主要な地勢、遭遇などが紹介されているですぅ。ここで感心したのは、チェルノガーリに戦争を行なう技能チャレンジが書かれているのはもちろんのこととして、アルヴァンドールでコアロンとセイハニーンがアボミネーションを狩るために行なうGlorious Hunt、セレスティアでモラディンとバハムート、コードの配下たちが行なう試合、Game of Mountainsなど、善の領界にも冒険になる題材を準備して、色々な冒険の余地を設けているところですぅ。

この章には九層地獄の項に「Hell's Bonds」という12レベル用のデルヴが収録されているですぅ。

Chapter 3: The Deep Astral Sea

「Chapter 3: The Deep Astral Sea」では、神格やそれに仕える者たち以外の独立種族や、主が死ぬか去るかして荒廃した領界(Shattered Dominions)が紹介され、最後にシナリオのネタになりそうなMotes in the Astral Seaがまとめられているですぅ。

ここで紹介される種族は、アストラル海を回遊して悪と戦うコアトル、アストラル海の海賊種族ギスヤンキ、神々が偏りなき裁定者として創造したMaruts、砕かれた自分たちの神格を復活させるために宇宙を旅するQuomという4種族ですぅ。

中でもギスヤンキについてはChapter 4にVlaakith CLVIIのデータが載っていることもあり詳しく、Tu'narathへの定住を拒んでアストラル海の深淵を航海するFar Travelers、他の世界をマインド・フレイヤーの拠点にされないよう侵略することに重きを置いたGul'othranという2つの非主流派が紹介されているですぅ。

荒廃した領界は神格ですら破壊できなかった存在を幽閉するカルケリ、高さ百マイルもある石化したプライモーディアルがそびえるErishani、デーモンに殺された神格アモス(次元界の書参照)の領界でアストラル海のあらゆる種族が集う闘技場があるカランデュレン、死せる神を崇拝するアンデッドたちが住むパンデモニウム、滅びたイルーミアンたちの遺産を狙う者たちがうろつくショームと、神々の領界よりも尖ったものが揃ってますぅ。

この章には神話級用の「The Monolith Stirs」というErishaniでの遭遇例、伝説級用の「Purifiers of Shom」というショームでの遭遇例が収録されているですぅ。

Chapter 4: Astral Denizens

「Chapter 4: Astral Denizens」は新モンスタで、4レベルの雑魚ひとつを例外としてすべて伝説級〜神話級のデータになっているですぅ。

内訳はアボミネーション、ベインの軍勢を構成するBanesworn、新しいデヴィル、Exalted of ErathisとExalted of Kordというモンスター・テーマ2つ、Vlaakith CLVIIを筆頭としたギスヤンキ、神話級オークや神話級オーガで構成されたグルームシュの軍勢、Quomとなっていますぅ。

ちなみに、グルームシュのエグザルフはLuthicなど1stのUnearthed Arcanaにいた懐かしい名前が連なっているけど、グルームシュそのものは“グルームシュは世界に溢れる小さき英雄ごときに興味を示さない。彼は自らの剛勇にふさわしい敵との戦いに忙しいのだ。”という理由でデータ化されていないですぅ。

というように、ここまで紹介してきたThe Plane Aboveは純粋なデータ量は少ない部類に入るですぅ。ただ、実際にプレイを続けていると技能の使用例や冒険のネタがなかなか使える事に気づく、じわじわ利いてくるタイプのサプリメントになってますぅ。


2011年11月04日 何時間が過ぎただろうか、この一団はずっとゲームをつづけ、笑い、語り合い――いつの間にかカーテンの隙間から朝日が差し込んで、徹夜明けで目がチカチカしていることにさえ気づかなかった。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e] Brian R. James、他『Monster Vault: Threats to the Nentir Vale

Monster Vault: Threats to the Nentir Valeは、モンスター・マニュアルのようにモンスタのデータを集めた本ですぅ。

ただ、このサプリメントは“ネンティア谷へ迫る脅威(Threats to the Nentir Vale)”という副題の通り、ダンジョン・マスターズ・ガイドで紹介されたネンティア谷に割拠する勢力の構成員、世界を裏から操るドラゴンや魔法使いなどに焦点を絞り、彼らの目的や他勢力との関係なども含めて解説する形になっているので、ワールドガイドやシナリオソースとしてもより使いやすい物になっているですぅ。

判型は通常のルールブックと同じサイズのソフトカヴァで、ケースにはモンスタのトークンとポスターマップが同梱されているですぅ。収録されているモンスタのデータは1レベルから20レベルが182種類で、英雄級、伝説級向けですぅ。

冒頭ではネンティア谷の詳しい説明が載っていて、かの地がネラス帝国最北端の植民地として開拓されて二百年ほどかけて発展し、ネラス帝国の衰退期だった約一世紀前に血槍族(Clan Bloodspear)のオーク軍団が谷に攻め込んだ血槍戦争(Bloodspear War)により大きく衰退したという簡単な歴史も明らかになってるですぅ。現在のネンティア谷は血槍戦争から復興しようとしている途上で、冒険者がひと旗揚げるにふさわしい土地ということも強調されてますぅ。

もちろんモンスタの項目としてもClan Bloodspearは用意されていて、データと一緒に自分をグルームシュの妃と称している新族長“オークの女王”マスーガ(Msuga, the Orc Queen)、女王とは双子の姉妹で、実は彼女が真の黒幕だとも噂される“血の魔女”ローカ(Rohka, the Blood Witch)という幹部の情報や、初代族長が自分の倒したアイアン・ドラゴンの角から魔剣を鍛えた逸話など、シナリオのアイデアになりそうな伝説が紹介されてますぅ。

今まで再録されていなかったBoggleやAbyssal Plague Demonのような新規モンスタがいるのはもちろんのことながら、D&D Encountersで使われたPhantom Brigadeが収録されているのも心憎いですぅ。

データもさすがにこなれていて、遭遇が面白くなるものが多いですぅ。中でも私のお気に入りは、ネンティア谷へアルコシア帝国の遺産を探しに来ているドラゴンボーンのディーザン軍団(Dythan's Legion)が復活させたアルコシアの攻城塔(Arkhosian Siege Tower)ですぅ。これは“生ける建造物”(Living Building)という特徴を持っていて、乗り物のように人を乗せて進軍したり、上に射手を乗せてやぐらとして使ったりもできるですぅ。もちろん中に乗り込むための方法も書かれているので、PCが逆に乗り込み、中で暴れたり乗っ取ったりする方向にも話を膨らませられる面白いものになっているですぅ。


2011年11月06日 冒険は土曜の早朝までつづき、食事と仮眠のために休憩を取ったあと、皆が昼にのそのそ起きはじめる。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e] Essentialsについての説明や製品について

ルールズ・コンペンディウム / Rules Compendium日本語版の発売が決定してAmazon.co.jpでの予約も始まっていたので、『秒読み開始!』に要点は書かれていて今更だけど、私が触ってみた感想などをまじえてEssentialsの製品を紹介するですぅ。

まず、英語版ではEssentialsというラインで出ているこれらの製品は既存のプレイヤーズ・ハンドブック(PHB)』ダンジョン・マスターズ・ガイド(DMG)』モンスター・マニュアル(MM)』の内容に最新のアップデートを適用し、構成などを再編集して出したものなので、既存プレイヤが買い換える必要はない製品ですぅ。

こうなったのには店員に製品知識がない店でも“とりあえず”置ける定番製品が求められていたなど、諸般の事情があったみたいですぅ。

ただ、『墜ちた地の勇者 / Heroes of the Fallen Lands『忘れられた国の勇者 / Heroes of the Forgotten Kingdomsに収録されているクラスのデータはPHBのものとは違うオプションなので、既に遊んでいる人はサプリメント感覚で購入できるというのが、ウリでもあり混乱を招いたポイントでもあったのかと思いましたぁ。また、特技も新規特技が相当数収録されているですぅ。

前置きはこの程度にして、次は個別の製品を紹介するですぅ。

プレイヤとDM向け

スターター・セット / Stater Set

そろそろ発売されて1年ほど経つ赤箱には、ゲームブック形式でキャラクタを作成できる『プレイヤーの書』、シナリオやルールの説明がある『ダンジョン・マスターの書』、ポスターマップ、トークン、パワーやアイテムなどを記録したカード、ダイスなどが入っているですぅ。

RPGとは何か? という段階の人たちや、とにかくプレイしてみたいという人たちには全部セットになっていてお勧めできるものですぅ。ただし、このルールではキャラクタ作成が他のルールブックと違い、ゲームブックを使った対話型なので、データを一覧で見ていろいろやりたい人には向いてないかもしれないですぅ。

ルールズ・コンペンディウム / Rules Compendium

この本はPHBDMGに掲載されていたゲームのルール部分をひとつにまとめた、いわばデータの“読み方”、“動かし方”を解説したものですぅ。

ルール用語やキーワードが何を意味するか、具体的な処理はどう行なうのかなどがまとめられたもので、プレイヤとDMの両方が持っていて損をしない、テーブルにひとつあると嬉しいものになっているですぅ。

戦闘遭遇の作り方、報酬、地形なども補遺として収録されているですぅ。

これ一冊あればホビージャパンの公式サイトでダウンロードできるシナリオとプレロールド・キャラクタでゲームを回すこともできるですぅ。

その他プレイヤとDM向けとして発売された製品はダイス一式とポーチがついたRoleplaying Game Diceがあるですぅ。

プレイヤ向け

『墜ちた地の勇者 / Heroes of the Fallen Lands

こちらは完全にプレイヤ向けの本で、キャラクタを作成するために必要なルールと、クラス、種族、技能、特技、装備といったデータがひと揃い揃ってるですぅ。

この『墜ちた地の勇者 / Heroes of the Fallen Lands『忘れられた国の勇者 / Heroes of the Forgotten Kingdomsと、ホビージャパンのサイトからダウンロードできるD&D第4版 クイックスタート・ルールがあれば、キャラクタを作成してプレイする最低限の環境は整うですぅ。

収録されているクラスはウィザード(メイジ)、クレリック(ウォープリースト)、ファイター(スレイヤー、ナイト)、ローグ(シーフ)の4クラス5種別で、戦士、盗賊、僧侶、魔法使いというオーソドックスな雰囲気のキャラクタが作成できるようになってますぅ。役割の内訳は、撃破役がスレイヤーとシーフ、指揮役がウォープリースト、制御役がメイジ、防衛役がナイトという構成ですぅ。

ここで面白いのはファイターで、ファイターというクラスの中にスレイヤーとナイトという種別があり、作成時に選択した種別によって得られる特徴が違い、別の役割を果たせるようになっているですぅ。

収録されている種族はエラドリン(魔法が得意なエルフ)、エルフ(敏捷性に長けたエルフ)、ドワーフ、ハーフリング、ヒューマンで、これもまた定番が揃っているですぅ。

『忘れられた国の勇者 / Heroes of the Forgotten Kingdoms

これは『墜ちた地の勇者 / Heroes of the Fallen Landsと同じ体裁で、収録されているクラス、種族のデータが違うものですぅ。キャラクタを作ってゲームに参加したい人は、『墜ちた地の勇者 / Heroes of the Fallen Lands『忘れられた国の勇者 / Heroes of the Forgotten Kingdomsのうち、好みのクラス、種族が収録されているどちらかを買えばいいようになってますぅ。

こちらのクラスはウォーロック(ヘクスブレード)、ドルイド(センチネル)、パラディン(キャヴァリアー)、レンジャー(スカウト、ハンター)の4クラス5種別ですぅ。

どれも『墜ちた地の勇者 / Heroes of the Fallen Landsより掴みづらいと思うので軽く説明をすると、以下のようになるですぅ。

ヘクスブレード
強力なフェイ(妖精)や地獄の存在と契約して武器を授かった魔剣使い。
センチネル
精霊が化身した動物を連れた獣使い。
キャヴァリアー
味方の代わりに攻撃を受け止める聖騎士(馬には乗らない、光る! 回る! 音が出る!)。
ハンター
弓矢や罠を駆使して敵を死地に追い込む狩人。
スカウト
剣や斧の二刀流で手数を武器にする軽戦士。

この中では撃破役がヘクスブレードとスカウト、指揮役がセンチネル、制御役がハンター、防衛役がキャヴァリアーという構成ですぅ。

収録されている種族はティーフリング(悪魔の恩寵をうけた角を持つ者たち)、ドラウ(ダークエルフ)、ドラゴンボーン(二足歩行する竜人)、ハーフエルフ、ハーフオーク、ヒューマンと、これまた少しアクがある構成になってますぅ。

DM向け

以下は未訳製品ばかりだけど、DM向けとして発売されたEssentialsの製品ですぅ。

Dungeon Master's Kit

DM向けの箱入りキットで、中には『Dungeon Master's Book』、ルールのサマリがまとまったDMスクリーン(紙は結構ペラい)、パーティやモンスタ用のトークン、2〜4レベル用のシナリオ『Reavers of Harkenwold』(2分冊)とポスターマップが入っているですぅ。

『Dungeon Master's Book』には、ゲームを運営するための手引きや遭遇、シナリオの作り方、罠や特殊な地形のデータ、パーティへの報酬として準備するための魔法のアイテムなどが収録されているですぅ。

ルールズ・コンペンディウム / Rules Compendiumに収録されていた戦闘のルールやランダム財宝表は『Dungeon Master's Book』にも収録されているですぅ。

Monster Vault

これはモンスタのデータ集ですぅ。収録されているモンスタはMMから有名どころを選んだ感じで、9割以上が1レベル〜20レベルに集中しているですぅ。

もちろん、ただの再録ではなくモンスター・マニュアルIIIで行なわれたバランス調整を織り込んだデータになっているので、洗練度合いも申し分ないですぅ。

また、収録されたモンスタ用のトークン、4レベル用のシナリオ『Cairn of the Winter King』とポスターマップも付属しているので、DMK『Reavers of Harkenwold』で使ったキャラクタを持ち越してプレイすることも可能ですぅ。

他にDM用として出た製品はDungeon Tiles Master Set: The DungeonDungeon Tiles Master Set: The CityDungeon Tiles Master Set: The Wildernessというダンジョンタイルのセット3種類で、それぞれ、ダンジョン、街、荒野のマップ作成に使えるけど、私は並べたりするのが面倒なので、ホワイトボード用のペンで描いて消せるGameMastery Flip-Matをもっぱら使っているですぅ。


2011年11月08日 彼はこのとき、ロード・ブリティッシュとなったのだ。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e][LnL] 『複雑さのカスタマイズ(Customized Complexity)』

伝説と伝承

モンテ・クック

その草創期、ダンジョンズ&ドラゴンズは非常にわずかなカスタマイズ性しか持っていなかった。君はステータスをロールし(しかもDMが意地悪だったらそれらを入れ替えることもできず)、クラスを選び、ダンジョンへと向かった。キャラクターのカスタマイズ性は君がどんな武器を装備するか選んだり(この選択肢すらクラスによって厳しく制限されていたが)、呪文――たったひとつの――を記憶することだった。

カスタマイズ性は版を重ねると飛躍的に増えていった。武器以外への習熟(non-weapon proficiencies)(訳註:現在の技能と似たシステム)、キット、技能、特技、パワー、テーマ……プレイヤーには多くが揃っており、多くのオプションで彼らのキャラクターを形作ることができる。君のファイターが以前は王宮の料理人だった? 大丈夫。君のウィザードは道場で毒を塗った手裏剣術の修業をしていた? それもできる。

これは常に君がプレイしたいキャラクターをプレイできるというお題目だ。しかしそれは素晴らしいお題目だ。

けれどもちょっと待ってほしい。本当にかつて君たちは望むキャラクターを作ることができなかったのだろうか? 技能、特技、その他さまざまな要素が無くても、君は――理論上は――何でも作ることができた。誰も君がかつて王宮の料理人だったことを止めだてはしない。そして毒を塗った手裏剣も? まあ、DMの承認は必要になるだろうが、それらは本当に君のウィザードが既に持っているダーツとまったく異なる物だろうか?

確かに、かつての版には多くの障害があった。第1版では、クレリックは決してバトルアクスを使えなかった。第2版では、ハーフリングはバードになれかった。他にも色々と。しかし、君のキャラクターをカスタマイズするシステムがわずかであったり無かったとしても演出ができないというわけではなく、ある種のプレイヤーにとっては完全な自由を意味していた。

カスタマイズ性は多くの人たちの場合何か意味がある選択と絡める必要がある。君はキャラクターがかつて王宮の料理人だったというだけではなく、その主張を担保する技能ボーナスを求めるだろう。D&Dが戦闘能力を定量化する方向なら、少なくともある程度、非戦闘時の能力も定量化しなければならない。これは適切な展望だ。

詳細に提供され複雑さが加えられた能力の中から君は意味があるようにキャラクターを作成する。キット、技能、特技、パワー、その他すべての新しいシステムを君は学ばなければならない。そしてキャラクターのカスタマイズは重要――おそらく一番重要なのは――1レベルの時で、君は始めようとしたらそれを学ばなければならない。突然、君はゲーム・システムが要求する新キャラクター作成に時間を取られる。

キャラクターをカスタマイズするための道具がたくさんあるのは、プレイヤーにとってよいことだ。過度の複雑さはプレイヤーにとってよくないことだ。ふたたび、私たちは二律背反にぶつかる。ゲーム・デザインで多く見られるように、それは幅広い分布を確認し、そこからそのゲームのために分布の上で丁度いい点を選ばなければならない。本当に分布があるか確認するのが難しい問題については、“そのゲームのために”という言葉がある。あるゲームにとって正しい事は、もうひとつにとって正しくない。では、何がD&Dにとって正しいのだろう?

しっかり、D&Dのすべてを確認しよう。複雑さがないところからカスタマイズに多くが割かれているところまで。異なる世代のD&Dプレイヤーは異なるものに慣れている。

分布の上で点を選んだらこう考えよう、全員ではなくこれで何人くらい、私たちはどれだけのグループを楽しませるのか? D&Dが君に道具を提供したなら、君はそれを利用するだろうか?

これはキャラクターを表現するためにたくさん存在する(そして長く存在している)サブシステムについて、それらはオプションであるということを示唆、あるいは結論づけている。これはキャラクターをカスタマイズするための技能や特技などすべての要素を含んでいる。これは本当に、急進的な考えだ。ゲームのプレイに大きな影響を及ぼすが、今の私はキャラクターの作成と表現に集中したい。これらを丸裸に――キャラクター作成の要点を見れば――すれば君には基本的な部分として能力値、種族、クラス、ヒット・ポイント、アーマー・クラス/防御値、そして装備が残される。面白いことに、これはずいぶんと第1版やOD&Dのように見える。他のものは要望どおり階層化することができる。また、興味深い思考実験として、君は(キットや習熟のような)いくつかのオプションを階層化すれば第2版のキャラクターのように見えるものを得られる。異なる階層化(技能と特技)をすれば第3版のキャラクターがいる。他の組み合わせ(技能、特技、そしてパワー)で君は第4版のキャラクターを得られるし、他にもある。

今のこれは極端な単純化で、異なる版では種族もクラスもそれぞれ違う場所から始まるのだが、これはそれを観察するために面白い視座だ。ゲームが持つほとんど変わらなかったいくつかの不可欠な糸を中心に、焦点を合わせる。その中心で、D&DのキャラクターはD&Dのキャラクターたりえ、こうしてその中心こそゲームでもっとも重要な部分だと明確になる。


2011年11月10日 コンピュータを相手にたった一人で何時間もコードを書いているものの、これから作ろうとしているゲームは本来が“社会的”なものだということを悟ったのだ。 [長年日記] 編集

§ [Ludus] ロード・ブリティッシュの“究極の”ロール・プレイング・ゲームとは?

I was attempting to make the “Ultimate” Role Playing Game before they were called Ultima and will continue long after they have been called Ultima.

What is a Lord British “Ultimate” Role Playing Game? | Facebook

それはパーソナル・コンピュータ以前に始まった

私はそれらがウルティマと名づけられ、名づけられてから長い間ウルティマと呼ばれ続ける前から“究極の”ロール・プレイング・ゲームを作ろうとしていた。

私が“究極の”ロール・プレイング・ゲーム(究極のRPG)を創造する事業を始めたのは1974年、ハイ・スクール在学中のことだった。36年前だが昨日のことのようだ。1974年は私にとって縁起のよい年だった。1974年に義理の姉妹が、私が始めて読む事になるファンタジィ小説、『指輪物語』をくれて私はすぐさま没頭した。まもなく、そこから開放された私は『ダンジョンズ&ドラゴンズ』と巡りあった。私はすぐさま30〜100人からなる最初期で最大級のゲーム集団を築き上げ、毎週の金曜日と土曜日はヒューストンの親元で多くの部屋を使い、徹夜でゲームのセッションを行なった。私の学校での国語のレポートは、私のD&Dのキャンペーン、そして私のコンピュータ・ゲームの多くが舞台とした、私にとって初めての幻想世界ソーサリアを描いたファンタジィ小説になった。そして、数年前にパーソナル・コンピュータが登場した頃で、私はその時どのクラスも使っていない、孤独なコンピュータ・テレタイプの端末を見つけた。私はそれを使う教師や予定がないなら、それでプログラムの方法を学び、それを学年での成果として外国語の単位に組み込んでもらえるよう、私の学級を受け持っている教師を説得した。Beginners All-purpose Symbolic Instruction Code(BASIC)は、ほとんどの人にとって外国語だ! よろしい? 私が学校に許可を得た時、我が究極のRPGへの探求は本格的に始まった! 私の探求は今日まで続いている。私の第一世代のゲームは『D&D 1〜28』と名づけられた。これらは学校のテレタイプで書かれ、巻かれた紙テープに保存され、音響モデムを通して遠くのPDP-11で動いていた。それらは英数字をグラフィックとして使っていた。“A”はジャイアント・アント、“$”はまったく疑いようもなく宝箱で、テキスト・キャラクタは後にウルティマのような究極のRPG計画で遣われる、タイル・グラフィックの代わりだった。グラフィックのスタイルは究極のRPGにとって必須要素ではない。

ゲーム第一紀――ひとり用ゲーム

私にとって最初の商業ゲームは、最初の商業コンピュータ・ゲームのひとつでもある『Akalabeth』だった。Apple ][が登場し、とうとう私はリアルタイム描画する自分のゲームを作る事ができた! 野外の見下ろし型の場面ときちんと描かれた3Dダンジョンが繋がった。実はこのゲームの歴史は明らかに私がさきに書いた28作の“D&D”ゲームに根ざしたものだった。『Akalabeth』は売り物ではなかった。私はただ自分と友達のためにそれを作った。私が夏の間働いていたコンピュータランドという店の店長、ジョン・マイヤーは、私に200ドルという大金(ハイ・スクールの最上級生だった)を費やし店の壁で“販売”することを薦めた。

数週間後、カリフォルニア・パシフィックという会社が『Akalabeth』の初回版を手に入れ、彼らが全国的にゲームを売り出したいと私に電話をかけてきた! 会社の社長、アル・リマーズは私たちにリチャード・ギャリオットという作者の名前を外し、私より注目されるゲームのキャラクタ、ロード・ブリティッシュと入れ替える事を薦めてきた。これは結局、パッケージ上で奇抜に使われるペンネーム以上のものになった。ロード・ブリティッシュは私で、創造主でありゲームの中でプレイヤに世界を説明する住民だ。私はプレイヤのかたわらで経験に加わり共有した。あなたのかたわらで世界を共有することは、究極のRPGで大切なことである。

(豆知識――ソフトーク・マガジンは“現実のロード・ブリティッシュは誰だ”という企画を行ない、ロサンゼルスに住むベスという人物ではないかと予想した。ご存知の通りAs-LA-Beth――Akalabethだ!)

ウルティマI、II、III――ゲームと世界を作ることを学ぶ

『Akalabeth』の成功で、私は商業に向けた最初の仕事を始めようと決意を新たにした。私は最初に『Ultimatum』と名づけたゲームにかかった! 多くは『Akalabeth』のコードを元に築かれ、リチャード・ギャリオットの仮想世界創造技術で磨き続けられた。ゲームのマップは主に私が創造したD&Dの世界、ソーサリアを元にした。仕上がった時、私たちはそれを『ウルティマ』の名前で売り出した。タイル・グラフィックの世界は一般的になり、私のデザイン哲学ではモンスタよりも重要な、あなたが見たものすべてに触るなど何かが行なえる、ウルティマの細かな世界との相互作用のために役立つ道具となった。世界との細かな相互作用は究極のRPGにもっとも大切な部分のひとつだ。

トールキンとガイギャックスの大いなる仕事に学んだ者として、私は自分のもっとも初期の作品でさえも深い現実味を持たせようと没頭した、ただモンスタと戦い、財宝を集めてレベルを上げるというものを、ほとんどのRPG体験は相変わらず主軸としているものよりも! 完全な歴史、言語と記述するための文字さえも究極のRPGのために早くから決めてきた。文化史、独自の言語と記述法も究極のRPGの一部だ。

『ウルティマII』では時間旅行を導入した。過去から現在、そして未来へのゲームをプレイするには馴染みのある舞台が必要だったので、地球を『ウルティマII』の舞台にした。『ウルティマ』は恐竜に宇宙船という暴投をうまく受け止めた。『ウルティマIII』で私はソーサリアに戻った。究極のRPGは多くの世界や舞台で生きることができるからだ。

『ウルティマII』はジップロックの袋ではなく、箱入りで出荷された最も初期の商業ゲームのひとつでもある。カリフォルニア・パシフィックの解散後、多くの発売元は既に人気があるシリーズの次回作を発売することに興味を持っていた。しかし私が箱入りで布製の地図と小説風に書かれた説明書を要求すると、彼らの関心は急速に薄らいでいった。私はゲームの体験はあなたがその物を手にするところから始まっていると信じているため、タロー・カード、コイン、護符、魔法の石やその他色々な物をプレイヤが大きな現実味を持って新世界に没入できるようにつけている。ゲームを構成する物理的なものは仮想世界を深く豊かなものにする。

『ウルティマIII』は私たちが私自身の会社、オリジンから発売した最初のゲームだった。これは究極のRPG探求で、ひとつの大きなきっかけとなった。私は始めてプレイヤ、あなたから直接手紙を受け取った。私たちは関係を築き始めたのだ。私はあなたが何を好きで、何が嫌いか、そして、あるいは合わなかったり、私があるデザインの中で意図を見失っていたことさえ知ることができた。これは私の仕事の内容と意味について、深い個人的な内省を与えてくれた。

このフィードバックと批評は私が究極のRPGを作り続ける旅路において重要で、ソーシャル・メディア、展示会での対面、そして私が愛する……紙の郵便を通じ、みなさんと直接繋がっていることで私も楽しみ続けることができる。『ウルティマIII』から私のゲームでは、終わらせた時に「汝の偉業をロード・ブリティッシュに報告せよ」と表示される。そして彼らがそうした時、私はしばしばゲーム内で秘密の言葉を使い、それぞれに対して個人的に応えようとしてきた! その対話を続けていこう! 遊び手と繋がっていることは、究極のRPGを作るにあたって不可欠なものだ。

ウルティマIV、V、VI――英雄の旅路:
支払い、徳そして社会問題でプレイヤの行ないを反映する

私は『ウルティマIV』にかつての作品よりも映画、本や他のゲームに埋もれない独特な世界を築こうと強く心に決めて取り掛かった。こうして最初のブリタニアは形を得て誕生した。社会と徳の文脈をゲームの物語に盛り込んだように、独創的な世界を創造することは私のデザインで重要な要素となった。私は物語の創造をジョーゼフ・キャンベルの著作で学んだ。細かで現実的な世界をいきいきと遊ぶための徳と社会問題の物語は、私の究極のRPGにおける中心の要素になった。

『ウルティマV、VI』もこの手法を続けた。プレイヤに彼らが行なったことの結果を返すのは、一本道の物語でも双方向型の物語でも同じくらいに重要だ。それは読者やプレイヤの心を深く打つ、説得力あるものでなければならない! あなた自身の鏡となることは究極のRPGに不可欠なことだ。

地球から私の世界への門をよく使うが――私はこれを『ナルニア国物語』から借用した――これは『ウルティマIV』から重要なものになった。ロール・プレイング・ゲームのプレイの王道として『蛮人コナン』はすばらしいが、あなたがだれだけコナンの信条を我がものにしているか、あなたは試されて成功しなければならない。『グランド・セフト・オート』ではあなたがどれほどいかす悪漢なのか審査される。私の物語はあなたという個人が成長する物語を目指したので、他の誰でもなく、あなたがあなたであることが重要だった。あなたが地球から新世界へ旅するという物語は、究極のRPGに不可欠なことだ。

ウルティマVII〜IX――独特かつ内面への物語

『ウルティマVII』で実は始めて、私は構想と計画が現在作っているゲームから続編へ繋がるようにして、始めて一作のゲームでは収まらないキャラクタと物語を計画した。『ウルティマVII』でブリタニアで物語を掘り下げ、『ウルティマVIII』でペイガンという新しい土地を探検し、そして私たちは『ウルティマIX』でブリタニアに戻って三部の三部作を終わらせた。

これらのゲームはそれぞれ『ウルティマIV』から、私は使い古されしばしば剽窃していたオークやエルフなど標準的なRPGの要素を取り除き、代わりに完全に現実味がある私の世界のために、深い歴史を持ち一貫したと感じられるものを新しく吟味して創造した。新たな現実性によって説明できないものはすべて取り除かれた。そして新しい道具は完全に吟味されて正当化された。独創的で深く一貫した世界は究極のRPGで非常に不可欠な部分だ。

魔法物語やSFで非常によくあるが、下手な作家は最終的な難関をぎりぎりになって発見される謎の不思議な力で解決する。私が嫌うことを学んだアドベンチャ・ゲームと同じくらいこれは非常によくない。それらのゲームでは、雪男の顔にクリーム・パイをぶつけて逃げ出せるなどおかしいとデザイナが考えているとあなたが思いつかない限り、ゲームを解くことはできない。だからウルティマの中期から、私は擬似的な科学と秘薬や言語学を交えた魔法の概念で内部の一貫性を再デザインした。論理的に作られた一貫性のある内部構造を持った虚構は究極のRPGに不可欠だ。

ゲーム第二紀――多人数同時参加

『ウルティマIII』から、ウルティマは常に擬似的な多人数デザインとしてあなたに人工のノン・プレイヤ・キャラクタ(NPC)のパーティをという体験を“共有”する友達を提供してきた。(豆知識:『ウルティマIII』の仮題は『ウルティマ3D/4P』だった。それは3Dのダンジョンを、4人のプレイヤがそれぞれひとりづつキーボードを受け持つ本物の人間が操作するパーティでプレイするものだった。)真の多人数による操作性と豊かで細やかでさまざまに関連した役割には『ウルティマ・オンライン』が大いに貢献した! 多人数型はゲームのプレイに大きな恩恵と人気を与えるが、物語を紡ぐという面では大きな挑戦だった。多人数型は究極のRPGにとって望ましく非常に挑戦的だ。

コンピュータの誕生以来多人数型ゲームは存在し、マルチ・ユーザ・ダンジョン(MUDs)には長い歴史があるし、AOLのダイヤル・アップ・サービスと掲示板(BBS)ではいくつもの多人数型ファンタジィ・ゲームが行なわれていた、『ウルティマ・オンライン』は多人数同時参加ゲーム時代の定番と認められている最初の大成功例だ。

私は多くの狼狽やその他の事を最初期の重要な製作者から学び、社員は頻繁に私のチームに参加してきた、私はしばしばオンライン・ゲームの父と呼ばれる。私はこの称号に異議があるが、非常に誇りに思っている!

過去十年間、ゲーム業界の成長はMMO業界にあった。これが大きな利益を生む事は、それはすばらしく創造的な挑戦でもあった。多くのプレイヤはMMO時代に物語が退行したことを嘆く、彼らはもう自分と全世界という究極の個人的成功のために自分だけの旅をする唯一の英雄ではなくなったのだ。それでも私は、究極のRPGはMMOの上で実現できることを確信している。

あなたに唯一独自の存在だと感じさせる大きな挑戦がある一方、MMOはプレイヤとプレイヤを繋げる力がひとり用ゲームよりはるかに勝っている。私はこの結びつきの深さをゲームで出逢ったプレイヤが実生活で結婚したり、現実世界で亡くなった人が決して対面しなかったであろう彼らのオンラインの友人からも非常に哀悼され、称えられたことからも実感している。現実で向き合い交流できる力は、究極のRPGの探求で簡単に無視されてはいけない。

多くのMMOは、多くのひとり用ゲームがそうであるように、究極のRPGではなく、それらはレベル上げを美しいがありていのファンタジィやサイファイの舞台でやるものになった。売上はすばらしいが、究極のRPGはこれらの例からは遠く離れている。

私はもうUOの指揮を行なっていないので、そこから私がいなくなってからのことを見よう。エルフと忍者がゲームに加えられたが、これは私が念入りに排除したものだ。これはほんの小さな出来事と理由の例示で、ウルティマはリチャード・ギャリオットから離れて流されているが、私はちっともウルティマから離れて流れたことはない。使い古され、無関係かつ再利用されたRPGの要素は我が究極のRPGの本質ではない。

私には明らかなことだが、少なくとも私ことリチャード・ギャリオットは、究極のウルティマにとって欠かせない存在だ。おそらくはある日、十年以上前に私をEAから追放した人たちはずっと前に退社し、私たちは彼らが失敗した年月をとりなし、契約をやり直すことができるだろうとEAは認めている。リチャード・ギャリオットは究極のウルティマに欠かせない存在である!

今、私はかつてのようにオールド・ブリタニアの世界を使いたい。今のところはエレクトロニック・アーツの幹部が共同開発の妥当性を認めるまで(いくつかのことは、プレイヤからの圧力が助けになる)、私はニュー・ブリタニアを作りなおす計画を使わねばならない。

それは私にはいくつかより多くの作業が必要で(そしてあなたはその新世界を見るために、より長く待たなければならない)、実際、私は20歳からゲーム開発を35年続けて住んできた世界を、多くの新世界に作りなおして新たな現実味を与える挑戦を楽しみにしている。

私は『Tabula Rasa』が究極のRPGであるように努力したと主張する。ゲームに新世界や新しい理想を設定し、大きな理想に応えようとした。いくつかの分野で私たちには時間が足りなかったこともあるが、私は間に合いさえすれば私たちの目標を見ることができたと思っている。それには多くのウルティマがそうだったように、リアルタイム戦闘が盛り込まれていた。また、それは多くのウルティマの未来像でもあった。前にもいったように私は多くのプレイスタイルと設定は究極のRPGに取って不可欠だと思う。

ゲーム第三紀――ソーシャルとモバイルのゲーム

今、私の新しい会社Portalariumには、ウルティマを究極のRPGとして作るための才能と技術を持つ人たちが集結し、私たちは無から新しい世界を、内部が首尾一貫した“ニュー・ブリタニア”の創造へ向かっている。私たちは究極のRPGとして非常に高い目標を持った。他が恐れ、失敗したところへ向かうことを究極のRPGは恐れない。

非常に内面的な物語だった『ウルティマIV: 聖者への道』を作っていた年に私が成功すると思っていた人はほんの少しだった。わずかな人々は私たちがデザインし始めた“MUltima”をその時信じてくれて、MMOの世界への扉を開いた。多くの伝統的ゲーマは重要度や深度から新しいソーシャルやモバイル・ゲームの成長とゲームへの影響を心配している。彼らはこの時代に彼らが期待する究極のRPG体験が提供されるか疑問を抱いている。だが、この新時代は究極のRPGの価値を増す強力な新しい道具を明らかにした。

たとえば、『ウルティマ・オンライン』のふたつのバージョンを仮定してみる。バージョンAは発売されたバージョン。あなたは車で店まで行ってそれを50ドルで買い、大急ぎで運転して家に帰り、長い時間をかけてインストールし、月額10ドルちょっとで契約し、キャラクタを作成し、仮想世界に降り立つまでおよそ4時間かかり、あなたはそれがすばらしいと知るまで長い間ゲームを探検しなければならない。では同じゲームのバージョンBを想像して欲しい。あなたは友達からリンクを受け取り、それをクリックする。あなたはすぐに無料でプレイを始める。ゲームのインストールと導入はあなたが数分でゲームを理解するように書かれていて……時間はかからない。あなたは支払う価値があると知るまでたっぷりプレイした後で、あなたはふさわしい支払い方法を提示される。私はこれらが実際に優れたゲームで優れたゲームの体験が得られるこれ以外同じゲームなら、バージョンBが完全に有利だと考えている。

この驚くほど重要な新要素はこの業界の初期移住者数名によって発見された。新しく強力な非同期の道具は現実世界の友達同士が無理に毎日同時にオンラインになったり、成長速度が落ちて最終的に友達とプレイできなくなる危険を冒すことなく、お互い協力して一緒に“プレイ”できる。前金で大きな出費をする代わりに、彼らが買う前にプレイヤに体験させることは優れており、無料で遊びたい人たちに、あなたが続けて無料で遊ばせることの見返りに他の人をゲームに呼ぶのを手伝わせるのもよいだろう。適度な社会的道具は究極のRPGと共存できる。

それと、伝統的ゲーマは『Ville(訳註:いわゆる“村ゲ”)』のクローンを見つけた時、勇気付けられて欲しい! 現在人気であることではなく、むしろこの新しい時代に彼らが強みを持っていることに! 偉大なゲームは偉大な映画のように、大衆が近づきがたい必要はない。偉大な物語と奥深さは苦行や費用などの多大な先行投資によって得られる必要はない。無料でのプレイはゲームが広告とあなたの友達へのスパムだらけであることを意味しない。しかし、支払う気がなかったり支払えない人たちに、開発者が自分たちのためにプレイヤを見つけるよう彼らに頼むことは不当ではない。この新世代に生まれる偉大なゲームは、伝統的プレイヤと新規顧客、両者に利益をもたらす。私たちはそういうゲームを主導するメーカになるつもりだ。

私は新世界のデザインと私たちの仕事をいつ公開して議論するかについて討論を続けている。私はいくつかに新しい方向へ向け、あなたの前に想像もつかないくらい新しいものを完全に現実感を持たせて披露したい。別の角度では、この世界が最終的にあなたの世界となり、プレイヤとしての参加は私の製作を助けると同時に、疑いようもない深みが準備できていることを伝えられるだろう。そう、私たちには見通しがある。秘密と共有の混合が歩くのにふさわしい道だ。

私が話して大丈夫だと思うのは次のようなことだ。ロード・ブリティッシュの究極のロール・プレイング・ゲームは、『Akalabeth』と呼ばれるかもしれないし『New Britannia』と呼ばれるかもしれないし『その名前を私はまだ設定を話せないように私は考えに考えを重ねて私がそれを確信できるまでは少なくとも秘密にしておかなければならない』と呼ばれるかもしれないが、究極のRPGだ。あなたはカスタマイズしたアバタールの家を持ち、美しく現実化された非常に双方向性の高い仮想世界を現実的な役割を深くプレイする。それはプレイヤへ反映する徳と英雄の旅路だ。それは最高の同期と非同期の特徴を持つ。物語はあなたが地球から新世界へやって来ることを助ける。私はゲームのプレイヤが使える地図、コインなどのチケットを作りたい。

しかし、理解して欲しい事もある。ウルティマの細部をすべて創造するのに25年かかった。新世界はより小さく、より薄くより軽く始まる。それにはいくつか、あるいはより多くのMMOにない特徴が少しある。私がたった今話した物語の重要な要素は開始と同時になくなっているかもしれない。しかし心配はない、これは私たちが率いていることだから。素晴らしい新世界で私たちとプレイして欲しい。私たちの育成を手助けして欲しい。あなたがプレイした年にあなたが何を学んだか私たちに教えて欲しい。ゲームに不慣れなあなたの新しい友達を招いて欲しい。彼らは新鮮な精神で何をすべきかという新しい考えを与えてくれる。彼らは恐らく悪い説明、悪いインタフェイスや膨大な前払い金を大目に見ないだろうし、それはよいことだ! 私たちは教え、同時に彼らから学ぶ。

私はあなたから“究極の”ロール・プレイング・ゲームが支援され創造への参加があることを望みます!

感謝を、

ロード・ブリティッシュ
ことリチャード・ギャリオット・デ・カイユ博士

最近ソーシャルゲームで動いているという噂のあったロード・ブリティッシュが、Facebookに投稿した文章を翻訳しましたぁ。

ゲームの開発や歴史を振り返りながら、ゲームにとって大切なものやこれからの展望を語るという内容で、示唆に富んだものとなっているですぅ。

Amazon.co.jpで買えるUO以外のウルティマは『ウルティマIX』、『ウルティマコンプリート』、『ウルティマコレクション』みたいだけど、IX以外プレミア価格だったですぅ。


2011年11月15日 まず、「善と悪の両方が重要な意味を持つ」という世界を舞台にしたファンタジー小説が、あまたの読者をとりこにした。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e][LnL] 『果ての向こう(Out of Bounds)』

伝説と伝承

モンテ・クック

ゲーム・デザインの理論は二項対立に満ちている。ゲーム対シミュレーション。複雑対単純。箱庭対物語。他にもいろいろ。それをD&Dにふさわしい、よく知られていてより興味深い、深い含みのある単純な質問として表現することができる。

ゲームはプレイヤーにあらかじめ準備された正解がある挑戦を行なうのか?

たとえば、すべてのモンスターは直接的に、つまり、剣とマジック・ミサイルで倒すことができるのか? すべての物理的な危険要因(壁を登り、狭い岩棚を通り抜け、河を渡る、など)はダイス・ロールで克服できるのか? それらのダイス・ロールはPCのレベルと能力値によって得られるもので成功できるのか? あらゆるパズルは技能や呪文で正解にたどりつけるのか? あらゆる問題への対策や解答はゲームに組み込まれているのか?

別の視点から説明をすれば、プレイヤーはゲーム内でのさまざまな挑戦を解決するために、彼のキャラクター記録用紙より多くを求められるのか? ゲームの果てはルールの果てとして定義されているのか?

ゲームの起源を振り返れば、この問いに対する答えはたいてい否である。草創期、キャラクターに問題の解決手段を提供するゲーム・システムは珍しいものだった。プレイヤーはルールの果ての向こうから背伸びをし、本で定められていない正解を探した。プレイヤーの工夫は常に遭遇に勝つための鍵だった。そして頻繁に、DMは事前に正解を準備せずにいた。彼はPCが自力で何かにたどりつくと思っていた。

これはより近年のゲームが表現しているものにはあてはまらない。PCの直接的なパワーと能力で勝てない遭遇はほとんどない。たとえば、火への完全耐性を考えて欲しい。ゲームの古い版で、レッド・ドラゴンは火への完全耐性を持っていた。ファイアーボールを準備していたなら、君は運が悪かった。ゲームの最新版で、あなたの行なった選択にゲームが駄目出しするでは面白くないとデザイナは判断し、レッド・ドラゴンは完全耐性ではなく、火への抵抗を持つようになった。

これは学ぶことができるデザインのやり方だ。君は選択しないことが悪い選択だと知る。君はすべての門には見つけることができる鍵があることを知る。あらゆる障害にはそれを通り抜ける方法がある。君はPCに絶対克服できない挑戦がぶつけられることはないと確信する。君はプレイヤーがダイスを何度かロールし、次の場所へ向かうことをよしとする。

簡素なダンジョンの一室を想像して欲しい。向こう側には財宝の山がある。PCは入るとすぐに向こう側に入れないよう力場が張られていることに気づく。“保守的な”ダンジョンの場合、プレイヤーは力場を越える方法を見つけるか、財宝まで手を届かせることを求められる。DMは事前に正解を考えてきていないかもしれない。もしかしたら彼らの持っているものでは、キャラクターがちゃんと宝を手に入れることはできないかもしれない。

ゲームは長い年月をかけて練り込まれ、遭遇のデザインに正解を付属させるようになった。おそらく、レバーか何かの力場を弱めるものがダンジョンのどこかにある。あるいは呪文や正しく組み合わされた呪文が防壁を解除するだろう。おそらく力場を避ける抜け道がある。あるいは十分な力があれば防壁を破壊することもできるだろう。

実はここに異なる視点からのやり方がある。たとえば、奇策で力場を抜けられるなら、それはまだプレイヤーの発想に依存する。遭遇はキャラクターに保険を与えるが、まだプレイヤーに重い努力を求めている。“保守的な”やり方の対極は、力場をどんなキャラクターでも能力を、ダメージを出す、技能判定を行なうなど、きわめて直接的に使うことで克服できるというものだ。

D&Dは歴史的に、プレイヤーと彼らのキャラクターに挑戦を行なうゲームだった。すべての問題がそれを殴ることで解決されるというわけではない。いくつかの問題は――プレイヤーがそこにたどりつかない限り――正解が存在しない。プレイヤーが彼らの取り組むすべての挑戦が彼らの能力を単純に直接使うことで解決できると知っているなら、実はそれはダイスの気まぐれだけで失敗してしまうかもしれず、結局多くのプレイヤーにとって退屈なゲームになりかねない。

D&Dは同じくらい物語ることを重視している。それは神話の運命が危険要因を克服するのと同じくらいにだ。ルールの果ての向こうから、ゲームの中へ正解を持ってくることで心からの満足を得られる。

そしておそらくそれは、本当にここで扱うべき話題ではない。ルールはゲームのすべてではない。ゲームはそれより広大だ。ルールを破っても、ルールの抜け穴をついても、ルールを無視しても、君はゲームから出ることはできない。ゲームはそういう種類のプレイをも含むからだ。そうした事実の上に、それは築かれる。それでは、なぜルールより大きなゲームをデザインしてはいけないのだろう? なぜそれらの可能性を考慮してはいけないのだろう? それはDMやデザイナよりも大きな責任を、プレイヤーの手に還してしまうからだ。成功や失敗が、ふたたび彼らの手に還されてしまう。


2011年11月16日 大学生から他のコミュニティへと広がったガイギャックスの「ダンジョンズ&ドラゴンズ」は、その愛すべきファンタジー小説の登場人物を演じる手段を与えてくれた。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e][BoVD] 『悪のキャンペーン(Evil Campaigns)』

Book of Vile Darkness』プレビュー

バート・キャロル

ゲームでの悪

「余はまるで悪が善の光に対する闇であるかのように、悪とは善の不在であるなどという言説を耳にした。余は思う、それは救済を求める者たちの、いじらしい考えだと、余は汝に教えよう、このような考え方もできると汝の心に届くように。汝は魔鬼の目を覘き求めたときに悪は待ち受ける虚無やうつろを満たす徳などではないということを知る。悪は力なり。それは同じかおそらくそれより大きなものに対抗するための営み、宇宙の力である。一なる光とそれ以外の闇、これらふたつの陣営は果てしなく争う。汝は悪の行ないを不届きだと断じるかもしれぬが、しんから堕落せしものどもにとって、同様に善行は忌むべき行為である。そは救済にあらず、知れ、汝が仕えるべく生まれたものへの反逆を」

――アスモデウス、九層地獄の主

善をなす可能性と同じくらい、あらゆる知性あるクリーチャーに悪を受け入れる余地がある。ほとんどのクリーチャーはどちらかになる。暗い欲望と闘う徳の戦い、このふたつの陣営に分かれた宇宙的闘争のもっとも小規模な舞台がひとつの命である。個体が善性を持ち続ける限り、悪の行為を考えて手を染めても悪の個体は生まれない。真の悪とは、望まれる状態である善、善行、そして内なる悪との闘いを思い出すことができない状態だ。この悪への堕落は魂の汚染と表現することができ、悪の影響がもっとも純粋に姿を見せたものこそ――不浄なる邪悪である。

あるBook of Vile Darknessの筆者は善と悪が決して創世の根幹ではなかったと主張している。はじまりはただ、法と混沌の争いのみが存在した。そのうち、法はプライモーディアルが荒削りに作った世界へ安定と神格への信仰を持ち込んだ。タリズダンが宇宙のいやはてで暗黒のかけらをもぎ取るまで悪は生まれなかった。そしてそれに対抗し、善が生まれた。この異常な主張がこの冒涜的な大著には綴られているが、分別のある者はほとんどが拒絶する。

私たちが君たちのゲームで君が選びたくなるような悪のテーマや、君のプレイヤーたちの人生の始まりから九層地獄の運命を決める戦争まで――をたどるキャンペーンの大筋までを吟味したものが、今日見られるBook of Vile Darknessだ!

キャンペーンのテーマ

「私はもう役にたたなくなったこの世界を恐れる」

――混沌のエミリコル

悪のキャラクターに重点を置いたおよそより暗いテーマになるキャンペーンでは、支配、堕落、そして滅殺(第1章参照)の3つのうち1つが大きな悪を表現する力と結びつく。

以下のキャンペーンのテーマは新しいキャンペーンの骨子や既存のテーマに混ぜてより不吉な雰囲気と色合いを出すために使える。

征服

単純なキャンペーンのテーマの場合、征服は特定の属性に縛られない。征服キャンペーンで、キャラクターは支配するための力を望み、それを得る。彼らは現世の力に狙いを定め、新しい暗黒帝国を築くための世界大戦を行なうのか、あるいはより高い場所を望み、アストラル海へ、アビスへ、あるいは他の次元界を彼ら自身が切り取るために往く。

キャラクターは彼らに与えられた時間の多くで力を磨き、軍を編成し、そして隣人との戦に明け暮れる。彼らは領土を切り取りながら、他の敵との争いや他の土地や権力者との間に同盟を結ぶための武器や儀式を求めるだろう。キャンペーンは次元界へと広がり、冒険者は自然世界に巨大な組織を作り上げ、他の領域への一撃を援護させるためにそれを使うことができる。

神殺し

神を殺すのは容易なことではなく、邪悪なキャラクターでそれを行なう動機があるのは冒険者だけではない。悪の神には、たとえば世界を破壊したり、それに取り返しのつかない打撃を与えることを計画させることができる。悪の冒険者が神の力を盗もうとしたり、計画の裏をかくよりはそれらを強引に破壊することを目標にすることで、そのようなキャンペーンに無法なひとひねりを加えることができる。神はゲームでもっとも強い存在の1つだ。彼らはその力で、自分たちに対する脅威を相手にする準備ができている。

キャラクターはその活動のほとんどを神の御使いとの戦いに費やし、彼らの力を高めるために闇の勢力と取引を行ない、彼らが選んだ仇敵と戦うためにゲームでもっとも危険な場所へ赴く。キャンペーンの終わりに、冒険者は領界で孤独にたたずむ彼らの敵である彼あるいは彼女と対峙するかもしれないし、彼らの台頭という脅威を終わらせるために手を組んだ神々と対峙するかもしれない。

世界の破壊

多くのキャンペーンでは大破壊から世界を救うことが目的となる。だが、このキャンペーンでは、冒険者がその破滅の運び手となる。キャラクターは世界を終わらせるための仕組み――ある神を他の神々と敵対させる、プライモーディアルを復活させる、あるいは旧き邪悪の力を呼び起こす――を動かすかもしれないし、彼らは狂える神が創世を引き裂いて遊ぶための駒かもしれない。

彼らの役割に関係なく、キャラクターは孤独と、善と悪の勢力が彼らを妨害しようとする敵意に満ちた世界を相手にする。それとは対照的に、冒険する駒たちはある種のクリーチャーが彼らを助けることに驚かされるかもしれない。最終的に、キャラクターは死か、彼らの仕事をまっとうするか、彼らへの情にほだされて破滅の訪れを止めるほうに鞍替えするかだ。

悪と戦う悪

このキャンペーンは悪の冒険者が悪の敵と戦う。悪の本質は破壊的なので、それそのものが拡大できなくなればそれ自体を攻撃する。おそらく悪は既に勝利しており、世界最後の希望は失われている。悪にも関わらず、キャラクターは滅殺に対する最後の希望だ。あるいは、冒険者は闇の力の工作員や暗黒神の下僕で彼らの主人の敵を倒す命を受けているのかもしれない。いずれにせよ、彼らはアンチヒーローで、彼らの働きを通し、世界の生き死にが決まる。

善と戦う悪

キャラクターは光を倒すことが望まれる悪だ。おそらく善は最近の戦いで闇を打ち払い、今のキャラクターは均衡を回復しなければならないのだろう。あるいはプレイヤーたちは凶悪な冒険者をやり、どんな力が彼らを止めようとしても災厄と苦痛をばらまきたいのかもしれない。

このキャンペーンの導入では、キャラクターが邪悪な計画を準備したり、善の砦を弱体化させる大変悪い行為に加担しようとするはずだ。悪の冒険者が力を得れば、彼らを探して手ごわい敵が彼らを狙い、信仰の御使いたる強力な冒険者が派遣される。キャラクターが善の巨大で権威ある力に立ち向かって倒すことで、このキャンペーンは終わりを迎えるだろう。

キャンペーンの大筋

「あなたはあの汚物まみれのできそこない、なめくじ大公のでぶから何を吹き込まれたの? もしそうなら、私はあなたに提案するわ――あなたはもっとうまくやれる」

――グラシア

不浄なる暗黒という要素をもっともよく活用できるのは、既存のキャンペーンにそれらをちりばめ、絶対悪によって冒険に大風呂敷を広げることだ。戦闘遭遇での常軌を逸した行動、不吉な地形、あるいは致命的な病気は、すべて屋上屋を架すことなく悪をもっとも純粋な形で伝えることに効果がある。不浄なる暗黒という概念をうまく取り入れてそれらを利用することで、脅威を強調して物語の主要な構成要素を効果的なものにする。このように使われる時、不浄なる暗黒はその力を保ち、プレイヤーに彼らが何と戦っているのか正確に思い起こさせられる。

以下のキャンペーンの大筋は不浄なるキャンペーンの基礎として使うことができる。それぞれの欄では起こる事件の詳細な記述より、起こるべき事件を幅広く説明している。君だけの物語を作る枠組みとして、これらの大筋を使って欲しい。

地獄戦争

アークデヴィルのバールゼブルは、彼のへつらいと忠誠の掟によってアスモデウスの呪いを受けている。もちろん、これは彼が応報の乱を起こし、アスモデウスに対抗したアークデヴィルであることが由来だ。裏切り者のゲリュオンがいなければ、バールゼブルは九層地獄の最高支配者を追い出したかもしれない。だが、彼はなめくじのような姿を強いられている。

なめくじ大公は彼の権威を取り戻し、はるか昔に始めた彼の事業を復活させるために力をたくわえ、デーモン・ロードとの同盟を築くことに年月を費やしてきた。

英雄級:上は下の如し

このキャンペーンはある殺人から始まる。被害者が重要人物(たとえば貴族、商人、神官、あるいは魔法使い)だったので、キャラクターは調査するために呼び出される。より多くの殺人が最初のものに続く。それぞれの事件で、目標となったのは有力な人物だった。その調査の結果、冒険者は被害者がひそかにアスモデウスを信仰しており、デーモン・ロードのグラズトを崇めるカルト、六本指の手が殺人を行なっていたことを知る。

キャラクターが“手”の一部を倒した直後、より多くの狂信者がデーモンを開放して暴れさせ、地方全域を恐怖に陥れる。この脅威を終息させると、冒険者たちはグラズトの信奉者がアスモデウスに影響されている土地の絶滅を企てていると知る。キャラクターは冒険の合間にいくつかの実現されそうな不快な計画をくわしく探り、六本指の手がルエルという名の悪魔研究者と繋がっていることを見つける。

ルエルを見つけ出すのは容易な仕事ではない。最終的に冒険者は彼が廃城にたびたび出没することを知る。冒険者は城に乗り込みモンスターや危険と戦いながら、激戦の中でルエルと対峙する。ルエルは死の間際、なめくじ大公に助けを求めて叫ぶ。この言葉によってアークデヴィルが黒幕だと判明して九層地獄で何か事件が起こることをほのめかす。

伝説級:暗黒の深淵へ

キャラクターがしでかしたことは気づかれないわけがなかった。グラシアは彼女の父に迫る危険を、彼女自身が昇進する機会だと感じる。このアークデヴィルは冒険者たちを勧誘するため、アイウーンの尼僧、アシャリという姿を持たせた彼女のアスペクトを遣わせる。アシャリは彼女の仕える女神が九層地獄の動乱を恐れていると話す。彼女はキャラクターにシギルへと向かい調査と彼女が提供した魔法のアイテムを使った報告を行なうよう依頼する。アシャリは冒険者に、危険だが有力な人脈を持ったラーヴァスタ(次元界の書、136ページ)の略奪者シーメシュカと会見すれば彼女が必要としている情報があると薦める。

シギルに到着すると、キャラクターはシーメシュカが簡単に見つかりそうにもないことに気づくが、困難はそうでもない。とらえどころのないフィーンドへ近づくたびに彼らは決まっていたずらに巻き込まれたり、横道によって注意をそらされる。シギルで彼らが冒険している間に、キャラクターは戦のためにデーモンの群れがアビスに集結していることや、グラズトが関係しているかもしれないこと、そしてアークデヴィルのベルが地獄の都市ディスを包囲したことを知る。

冒険者が最後にシーメシュカを見つけた時、それはアスモデウスから玉座を簒奪する計画を明かし、状況はより悪化する。それが成功すれば、次元界がばらばらに引き裂かれることさえありうる。ラーヴァスタはアスモデウスしか彼の紅玉の王笏に封じられた暗黒を御することができないと説明する。そしてその遺産が間違った者の手に落ちたなら、それは“暁の戦”を再始動させることになる。最後に、シーメシュカは――もちろん、適切な報酬が必要だが――ゲリュオンがグラシアを殺して彼女の領域を奪おうとしていることを明らかにする。こうした行為はネッソスの主を十分に弱体化させ、彼の敵が彼を追放する行為に代わるかもしれない。

伝説級は冒険者が九層地獄へ急行し、ゲリュオンの攻撃からグラシアを助けるところで締めくくられる。キャラクターは無数のデヴィルと戦い、そしてゲリュオンと彼の暗殺者であるユーゴロスが罠を仕掛けたアークデヴィルの宮殿へ潜入せねばならない。冒険者がゲリュオンを破ったまさにその時、彼らにデーモンがアヴェルヌスへ攻め込んだと報せが入る。

神話級:バートル戦役

九層地獄の戦争が神話級の中心で、冒険者はどちらにつくか決めなければならない。神話級が始まるとき、グラズトと配下のデーモン・ロードたちは暗黒八魔将(ピット・フィーンドの盟約)を叩きつぶし、不意討ちでベルの軍勢を潰走させた。ディスパテルは彼の守護者たちを呼び寄せた。しかし彼らはベルに包囲され、絶望的なまでに弱体化している。

グラシアの生死に関わらず、バールゼブルは彼女の死をいともたやすく、かつてアスモデウスの妻、ベンソジアを殺害したレヴィストスの仕業だとすることに成功する。アスモデウスは怒りに駆られ、メフィストフェレスにレヴィストスを滅ぼす命令を下し、ベールゼブルとマモンにディスの援軍へ向かうよう命令する。

一方、ベリアルはデーモンの主人たちが内部へ浸透できるよう都市への抜け道を明らかにする。かくして、ディスは援軍の到着を待たずに陥落する。バールゼブルが到着すると、彼、ベリアル、そしてグラズトの軍は合流し、マモンに行動を共にするよう強要すると、彼らは九層地獄の主を倒すべく進軍する。

これらの計画が進行しているる間も冒険者は暇ではない。彼らにはグラシア、アスモデウス、あるいはバールゼブルという潜在的な後ろ盾がいる。彼らが誰と手を組んでも、冒険者は自分たちが計画の一部になっていると気づく。彼らが戦うのはディスを征服するためか守るためか、デーモンの群れが九層地獄の中枢に到達してしまうかもしれないし、バールゼブルが手繰る裏切りを暴露するかもしれない。

冒険者が見ることのできる理想的な結果は不埒者たちを追い返して九層地獄の法を回復させるためにレヴィストスとメフィストフェレス(九層地獄でもっとも寒い階層の主たち)を共闘させることだ。しかし、キャラクターがあまりにも多くのあやまちを犯すなら、アスモデウスは廃されて新たな権力者が彼の地位に登極するだろう。これらの事件の結果を決定するのは、君に任せられている。

バート・キャロル

バート・キャロルは1980年からのD&Dプレイヤー(そしてイラストに色を塗った第1版のMonster Manualが好きだった)で、2004年からウィザーズ・オヴ・ザ・コーストで働いている。彼は現在D&Dのウェブサイトのプロデューサで、ヒーローとモンスターについてのブログをhttp://ourheroesjourney.wordpress.comで書いている。君は彼をツイッターで見つけることもできる(@wotc_bart)。

4eのBook of Vile Darknessがプレビュー公開されていたので訳しましたぁ。

4eのBoVDは、設定を扱った本と、悪のPCを使ったキャンペーンを運営するためのサンプルの遭遇やシナリオフック、技能チャレンジ、儀式、悪のプレイヤー・オプションが入っている本の分冊になっていて、よりプレイの現場に近い内容になってるみたいですぅ。

Heroes of Shadowと組み合わせても面白そうですぅ。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

§ 黒猫トム [Grazie sempre DEATHゥ。 3.5版のときの"あの書"のようなもんか、とたかをくくっておりましたが、..]


2011年11月22日 そして、コンピュータは、それらを融合する新次元のパワーとなった。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e][LnL] 『パイを切る別の方法(A Different Way to Slice the Pie)』

伝説と伝承

モンテ・クック

D&Dの第3版が発売された時、多くの人たちが彼らへの利益がこれっぽっちもないからという理由で機会攻撃という考えを批判した。皮肉にも機会攻撃はそのずっと前からシステムに存在していたというのに。初期のD&Dで、もし君が隣接した敵に背を向けるなら、彼は君へ攻撃を行なう機会を得ていたが、これはもちろん機会攻撃である。また、君が敵の隣に立っているなら弓や呪文を使えなかったが、それを可能にするハウス・ルールはよくあり、それも君の敵が君へ攻撃を行なうものだった。

(少なくともD&Dのための)“機会攻撃”という言葉はこのゲームでは第2版中期のPlayer's Optionまで作られていなかった。さまざまな特殊な状況を体系化してルールをまとめるのは、素材を整理して概念を管理するすばらしい方法に見えた。

新しく成文化したルールの問題は、それが覚えるべきもののひとつに加わることだ。さらに、それはたとえプレイ中に決して起こりえないことでも、君が学ばなければならないゲームの一部になってしまう。ありえそうもない話だが、第3版では実際にプレイするまで誰も“機会攻撃”の項を読んで理解していないこともある。なぜか? それは機会攻撃がプレイヤーのターンに誘発されないアクションだからだ。彼らは同様に状況によるものも忘れやすい。

そこで、パイを別の方法で切ることを想像して欲しい。D&Dの戦闘要素として機会攻撃を声高に叫ぶより、君は彼らが必要な時に応じて単純にルールを加える。第1版のように、君が敵から離れたり、飛び道具を隣の彼に撃つとき、その敵は攻撃を行なえると言えばいい。

この方法では、君がルールを必要とした時にだけそれは現われる。成文化された部分は少なく、プレイする前に知るべきルールもより(あるいはもっともっと)少ない。“ほどかれた”ルールは個々に分類されてルールブックの大きな章に記述され、ルールが必要になった時に読める。

必要な時に追加するルールには、君がわかりやすく低レベルのゲームをプレイできるという利点がある。たとえばダメージへの抵抗など、1レベルのプレイからは必要でないと主張する人がいるかもしれない要素がゲームには多くある。これは立派な仕組みだが、1レベルの段階で君はダイスをロールしてそれがヒットしたかを見たいだろう。ダメージへの抵抗という概念を発生する状況(呪文や、モンスターの能力など)の内側にまとめておけば、これらのルールや状況が低レベルのプレイで発生しないことを確認した君は無視しておくことができる。新しいプレイヤーと経験豊富なプレイヤーでも、1レベルのキャラクターをプレイする時はダメージへの抵抗(あるいは瞬間移動、あるいは念視、あるいは精神操作、あるいは組みつきなど、君が低レベルのプレイで不要や厄介すぎると判断した概念)を知らなくても、多くのルールを必要とせずテーブルにつくことができる。

この思考法を使うなら、私たちは5レベルあるいは12レベル、はたまた19レベルでもシナリオを安定させ、キャラクターのレベルだけではなく複雑さも重要にすることができる。高レベルではゲームがより複雑になると承知しているなら、私たちはそれを効果的に使うことができる。DMが店で8レベルのキャラクター向けシナリオを見つければ、その記述が彼にどれくらいの脅威かだけでなく、そのシナリオの複雑さがどれほどなのかもその記述で語ることができる。こうすれば、わかりやすく軽快に遊べるゲームを望むなら低レベル、そしてより幅広く、より複雑なゲームはより高いレベルでプレイすることができる。私たちはより複雑なオプションを中から高レベルに限定したルールのサプリメントを作ることすらできる。

つまりは、きちんとルールをまとめることで、一握りのゲーム・デザイナが彼らのためにそれを行なうことなく、ゲームのグループが彼らのゲームに望む複雑さを決めてもらうことができる。私はゲームをどうプレイすべきかという話をしたくない。私は手段――おそらく複数の手段――を君のために準備し、君が君のゲームに望むよう合わせていくのを望んでいる。


2011年11月29日 プレイヤーはその世界で暮らしていた。 [長年日記] 編集

§ [DnD][4e][LnL] 『君は何ができる?(What Can You Do?)』

伝説と伝承

モンテ・クック

ゲームでもっとも重要な面のひとつは議論を待つ必要がない。君は君のターンに何ができる?

これは言葉以上にたいへん複雑な問いである。それにはゲームで定義されたアクション種別(アクション、標準アクション、移動、移動アクション、移動代替アクション、マイナー・アクション、フリー・アクション、即効アクションなど)だけではなく、ラウンドの間、そしてラウンドが終わるまでに何ができるかも含まれている。これらの点はゲームの複雑さ、ゲームの抽象性、そしてテーブルでプレイされるときにラウンドが進む速さにも影響を与える。

第2版の末期にそれらは複雑化しており、第3版となるにあたってすべてが整理された。それは滑稽に見えたかもしれない。しかし、少なくともある点においてそれは正しかった。具体的な方法でそれらを解体して柔軟にしたが、システム全般では流動性が減った。

第3版で、ラウンドはかなり短い(さまざまな代替ルールでは既に短くなっていたが、1分から6秒になった)ものとなった。あらゆるアクションはプレイヤーがゲームで行なうことを直接表現できるものになり、ゲームの抽象性を減らした。プレイヤーが彼は攻撃をするといえば、それは彼のキャラクターがそうすることを意味する。以前の版でラウンドは1分だったので、時間感覚の抽象性は強く、彼が長い時間でどうしたかがより重要なものだった。これらの問題は厄介な問題はDMが長い時間枠を流動的に運用することで緩和され、抽象化によって糊塗された。典型的な戦闘は数秒とは対照的に数分間続き、現実味を感じる戦闘時間で終わるようになっていた。

しかしそれを扱うのは難しく、第3版と第4版でラウンドは(あるいはむしろ、1体のキャラクターがラウンド中そのターンで何ができるかは)大きなアクションと小さなアクションに細分化された。君は何かを行なって移動するか、何かを行なってデザイナが移動と等価とした別の何かを行ない、何度かフリー・アクションを行なう。それをより単純に、君のターンに君は1回しか行動できないようにするとどうだろう。それはその通りに行なわれ、アクションを分類する必要はない。君は攻撃するか移動するか呪文を発動するだろう。武器やアイテムを取り出す、ドアを開けるなど、ゲームが気前よく“計算に入れていない”ことを行なうかもしれない。ラウンドはより速く展開して参加者は彼らのターンをより速く回していく。君はプレイヤーを観察して彼らのターンに少しでも価値を持たせるために余計なアクションを絞る方法を探さなくても、それぞれのプレイヤーがそれを行なうだろうし、それが重要なのだ。このようなゲームの歴史を破壊するような簡略化は、昔からのプレイヤーならたじろぐかもしれない。しかし新しいプレイヤーには、“君は自分のターンに1つのアクションが行なえる”と説明することで多くを理解してもらえる。そしてそれはそれぞれのターンをより短く速いものにする。

“君は自分のターンに1つのアクションが行なえる”のやり方では、一部のプレイヤーは彼らのターンに攻撃や呪文の発動ができなければ、貴重なターンを浪費したように感じるだろう。人は移動やその他のことを行ないたくない。だが、プレイがより速くなれば、これは覆されるだろう。1戦闘ラウンドの処理に20分ほどかかりかねない旧版のゲームで、君がそれをすべて移動に費やしたら全然楽しくないだろう。しかし、ちょうど2分以下まで短くなったなら、君にとってそれはそこまで大きな問題ではなくなる。私は多くの異なることを君のターンに行なうより、1つの行動だけを行なう数ターンのほうがより利点があると考える。

ラウンドがより速く進行するなら、何かを受けた影響を君は1、2ラウンドで脱せるため(たとえば、気絶や組みつき)非常に軽いものとなる――これはキャラクター視点からではなく、プレイヤー視点での評価だ。速いプレイは自分のターンが回ってくるのを待つ時間が減るため、プレイヤーをゲームに集中させる。しかし、ここだけ変えてもおそらく私が書いたほど劇的にプレイ速度が上がることはなさそうだ。もし読者がこの研究の観点を興味深く思ったなら、私は今後のコラムでプレイ速度を上げる他の可能性を検討する。意見を聞きたい。