2012年05月15日 なるほど、人の話を盲目的に信ずることは、人間にとって根深く、代々受け継がれる特質であり、何の資格もない者が、学問に与ろうとするのも広く起こりがちなことである。 [長年日記]
§ [DnD][DnDNext] 『ゴブリンが気にするのは君の斧だけ(Goblins Care Only About Your Axe)』
2012年05月10日、木曜日、午前07時32分
投稿者:WotC_Bruce最近私はたくさんD&Dをプレイした。しかし、何度ルールをデザインしても、あるものはずっと変わらなかった。私が斧をゴブリンの首に叩きつけてそれが命中したなら、ゴブリンは死んでいる。
脳内劇場、メモ用紙でだいたいの位置を描いた脳内劇場、脳内劇場とミニチュアの混成、あるいはグリッドに置かれたミニチュアのどこで戦闘が起きようが、それは変わらない。
私が以前のグリッドと想像力について書いたブログで議論したように、私のゴブリンとの戦闘を囲むシステムは多くの要素を劇的に変化させることができる。一番異なるのはテーブルが戦闘に費やす時間の合計、そして私が自分の斧を構えたゴブリン殺しに与える戦術的な意思決定の量である。
これら2つの要素の関係は本当に絶妙で、それをごまかすことはできない。物語風に話し、時々それを簡単にするための努力としてミニチュアとグリッドつきの地形マップを取り出して洞窟の入り口にゴブリンの衛兵を2体配置する。この状況の“物語”は、DMが明確に遭遇を変更していかない限り戦術と関係を持たない。2体の衛兵が戸口に立っている(あるいは他の“小さな”遭遇)はグリッドを使う戦闘しかない場合はゲームから取り除かれがちである。なぜならばDMやアドベンチャーのデザイナはゴブリンの衛兵2体(あるいはゴブリンの衛兵5体)との単純なやりとりのためにミニチュアを取り出す努力する価値がないと知っているからで、そのような遭遇は消えていくか、より大きな遭遇の一部になる圧力がかかっていった。これはプレイヤーがテーブルでミニチュアを見た時、他の何かに関係なく常に戦闘が始まりそうだと考えることを意味している。
他の時、物語は戦術に寄り添う。ヴァンパイア・ロードと酸の池、陽光が射し込む窓、ヴァンパイアに支配された術者の奴隷、そして霧の中にうごめく彼女が従えている落とし仔の位置取りについて、私はきちんと知っておきたい。5フィート押しやるか押しやられることは、私が酸に落とされるか、私がヴァンパイアを陽光にさらすかという、この戦いの勝敗を決定する重要な要素となりうる。
私たちが最後にグリッドについての投票を行なったブログによると、君たちの多くは異なる遭遇のための遭遇のルールが必要なことに同意した。それは私たちが感じていたのと同じことだった、すばらしい。この筋で考えていくなら、私たちは中心的な戦闘解決システムに脳内劇場とグリッドを組み込むことができる。戦闘システムがほとんどをグリッドに頼っていた前版とはあまりに異なるが、それらの戦闘が継ぎ目なくミニチュアを使うことも使わないこともできる様子を想像してほしい。
これは、グリッドについての議論で持ち上がった、脳内劇場とグリッドを簡単に継ぎ目なく使い分けられ、グループによってはその時々で好きに決定でき、またどちらかの戦闘解決システムにこだわるグループのためにもなるという一連の問題に対する回答である。私たちの仕事は“グリッド対脳内劇場”の対戦を行なって勝者と敗者を作ることでも、D&Dプレイヤーの中にあるグループの中で彼らがプレイしたいルールをサポートしないことでもない。そうではなく、私たちの仕事はどちら寄りのプレイ・スタイルでも成功して使われる素直な環境を作ることだ。
たとえば、ファイターがグリッド上で意味をなすような能力を使った場合、私たちは同じ能力を脳内劇場でも役立つようにデザインせねばならない。広がったグリーン・スライムの近くで戦闘する時は脳内劇場ででも、どれくらいの距離かは重要でないとしても、敵を押しやる能力は重要である。もし私の“痛烈な打撃で押しやる構え”でゴブリンが後ろに突き飛ばされたら、それが何フィートになるかに関係ないのか、グリッドの上でどうなるかに関係いのか、プレイヤーの想像力に任せるのか、いずれにせよゴブリンはグリーン・スライムが今は友達でないことに気づくだろう。