ネコぶんこ


2011年12月13日 彼はルーンという言語の研究も始めていた。 [長年日記]

§ [DnD][4e][LnL] 『仕組みの維持(Maintaining the Machine)』

伝説と伝承

モンテ・クック

先週のDMへ情報を開示することについてのコラムで、興味深い謎が現われた。ダンジョン・マスターの真の役割はなんだろう? 以前私はいろいろな人にそれを尋ねた時は、しばしば「彼はモンスターの判定をする」のように答えられ、幻滅させられた。DMはそれ以上のものに違いないから私は“幻滅”したのだ。

他の人たちはDMの役割がゲームのシステムに気を配る、システムの一部だと主張した。ゲーム・システムのDMが読む項にはたまにしか使わないようなものでも、少しでも需要がある裁定の多くを成文化して体系化している。DMによる裁定は望ましくないという意見は、長い時間をかけてD&Dの文化で多数派になっていった。DMによる決定は、ゲームを酷くつまらないものにしたり、DMの権限を逸脱していると。

他の静かな人たちはDMが語り部であると主張するかもしれない。ダンジョン・マスターというものは非常に創造的な仕事で、この“DMは語り部”説は私をしばらくうならせたが、しかし、語り部はグループ全体である。DMは世界とキャラクターと大筋を創造するが、全員がテーブルにつくまで物語は語られない。

私はいつでもDMをプレイヤーと幻想世界のつなぎ手と見たかった。彼は彼らの目と耳であり、彼らが見たものを語り、彼は彼らを取り巻く(架空)世界に対して何ができ何ができないかを決める裁定者である。

おそらくDMはこれらすべてを行なうだろう。

だが、私たちがDMとゲームを共同作業の相棒だと見たらどうだろう? 私たちが両者の強みと弱みを認め、彼らの弱さを補うために強さを利用し合うなら? たとえば、ゲーム内でキャラクターが行なおうとするアクションすべての面倒をゲーム・システムはみていられない。こういう時、ゲーム・システムは彼らが1ラウンドで何ができるかという貧弱な裁定しか出せない。それはルールで一般的なアクション(攻撃、呪文の発動などなど)を提供するが、システムはあらゆるアクションを解決できるわけではない。DMなら可能だ。なぜならDMは人間でアクションがどの程度の長さかを簡単に判断できるから、それが難しいことではない。これは絶対の精密さが要求されないゲームの一面でもある。そしてこの場合、DMによる決定は素晴らしいものだ。事実、それは強みである。

次は攻撃ロールのことを考えよう。ほとんどのDMは戦闘の心得などなく、いろいろな武器、戦い方などの知識もないだろう。だが、ルールはゲーム・バランスを保った適切な精度で戦闘をうまくさばく。

なぜDMにターンを裁定する権利(と指針)を与えず、ゲーム・システムに攻撃ロールを任せるのだろう? DMがルールをよりよいものとし、ルールはDMをよりよくしてゲームを満たすことができる。それらの理解は慎重でなければいけないこともあるが、システム・デザインの面白い方法だ。私はルールブックやコンピュータではなくて生きた、生身の人間が存在することがテーブルトップRPGの強さ――おそらく一番の強さ――だと感じているので、私はそれが好きだ。私たちにはDMがいるので、彼に働いてもらおう。それは彼が最善を尽くせるよう、ゲームの難しいところ、時間がかかるところ、退屈なところを直していくことであるともいえる。DMの真実を受けいれることは、それが楽しく価値あることであり続けるための確実な方法だ。